エストニア留学日記。

女子大生が送るきままな留学のお話。

リトアニアとポーランドの一人旅。Vol.2

皆さま、ごきげんよう。Nakabeniです。 

 

今回は前回のカウナスの旅の続きをお話しいたします。

1月28日、朝8時起床。天気は曇り、気温は2度。

朝は昨日お会いした日本人女性の方とホステルの近くのGreen Cafeというカフェで過ごします。Monk's Bunk Hostel に宿泊された方はGreen Cafeで頼むコーヒーの種類が全て割引されます。なんて嬉しいことでしょう。

彼女とはまた午後6時に会う予定で、それまでは別行動。私は今日の深夜にカウナスを出発しますので、早速行動。今回のお目当ては杉原千畝記念館へ訪問することです。

ホステルのスタッフさんが教えてくださった散歩道を歩きながら向かいます。

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カウナスも、タルトゥのようにストリートアートが沢山あります。こちらの写真は見つけたお気に入りのストリートアート。

 

近くにある丘を登る乗り物に乗って、すぐ近くにはモダンチックな外観の教会がありました。他の記事を見て後から学びましたが、これはキリスト復活教会で、1932年から1940年にかけて建設されましたが、ソ連時代は建設工事は中断されていたそうです。

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中に入ると、ステンドグラスは5,6枚両側に張られていて、私が想像した窓の全てがステンドグラスで張られた教会とは全く違って、中はまだ新しい雰囲気が感じられます。

 

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道中、猫に出会います。ごきげんよう

そして歩くこと約30分。住宅地にひっそり建つ、杉原千畝記念館に到着しました。

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この記念館は、当時杉原千畝が実際に勤めていた旧日本領事館です。

実は、ドイツの日本人学校の6年生の時に第二次世界大戦中、杉原千畝さんの物語を伝える劇を行いました。そのため、エストニアに留学している時に訪れようと決めていました。

館内では、杉原千畝が実際に発行したビザや、第二次世界大戦中のリトアニアの情勢に関する書類が展示されています。また日本語での資料映像を鑑賞できます。

 

館長さんから、杉原千畝のことや当時のリトアニアについて丁寧に教えてくださったことを、皆さんにも共有できればなと思います。 

 

独ソ不可侵条約

1939年8月に独ソ不可侵条約ドイツのヒトラーソ連スターリンの間で締結されます。「相互不可侵」と「中立義務」を公表しています。(有効期限は10年)

しかし、これにはロシアとドイツだけの間で秘密条約が交わされていました。1945年のドイツ敗戦後になってから初めて明かされた秘密議定書で公になります。

交わされた秘密条約は4つあり、そのうち2つは

という条件でした。

(この条約を結んだ一週間後はドイツがポーランドへ侵攻し、フランスやイギリスがドイツに宣戦布告、1939年9月1日、第二次世界大戦がはじまります。杉原千畝カウナスの日本領事館領事代理に着任してから4日目の出来事です。)

 

ドイツ、ソ連によるポーランドの分割

ポーランドがドイツとソ連によって分割されるということは、ポーランドという国自体が世界地図から消えてしまい、ポーランドの国民が難民なるという意味です。

オランダは既にナチスに侵略されていたため、ナチスドイツからのユダヤ人迫害から逃れるためには、ポーランドユダヤ人は遠く離れたオランダ領のカリブ海に浮かぶ、キュラソー島へ逃げる事しか生き延びる手はありませんでした。

しかし、そこに行くには日本の通過ビザが必要でした。そのため、その時まだ中立国家(ソ連併合への移行期間中のため)であったリトアニアにある日本領事館へ赴き、ビザを発行してほしいと杉原千畝に懇願したのです。

 

杉原千畝はその返答にはすぐには対応できませんでした。なぜなら、日本は日独防共協定を結んでいたため、ビザを発行することはナチスに犯行行為をしているということになります。悩みに悩み、彼は日本通過ビザをユダヤ人に発行する決断をします。

 

命のビザ

日本の外務省からのビザを発行するか否かの返答は、もちろん「No」でした。

本国からの撤退命令も出されますが、杉原千畝ユダヤ人難民に大量のビザを発行し始めました。1940年、リトアニアソ連併合と同時に、領事館が閉鎖されます。閉鎖後、彼はホテルへ移動する道中やベルリン行きのカウナス駅でも、時間の限りユダヤ人難民たちのためにビザを発行し続けました。

 

6週間で、彼は1600のビザを彼らに発行し、6000人ものユダヤ人の命が救われました(ビザは1家族一つとされる)

 

その後、杉原千畝はビザの発行により、外交官を退任しました。

 

しかし、命のビザで救われたユダヤ人は20数年過ぎた後でも、杉原千畝を探していました。でも、外務省からの回答者は無し。

1968年、杉原千畝は当時ユダヤ人難民だった方とようやく再会することができました。

1985年、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を受賞。

そして、1986年、鎌倉にて永眠。

2000年には日本国政府から公式な杉原千畝名誉回復が発表されました。

 

「葦のようにしなやかに、杉の木のようにかたくなるな」

事実を並べてそれに堅実に従うのではなく、真実を問いただす、杉原千畝の生き方を表すのに相応しい、ユダヤ教典にある言葉です。

 

この記念館に訪問して、歴史から学ぶことはたくさんあるなぁ。としみじみ感じました。

今回はかなり長くなってしまいましたが、最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

 

今日も素敵な一日をお過ごしください。

 

(いろんな質問、ご感想などもお待ちしております!)

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